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インタビュー●奥村裕司 Yuzi Okumura 写真提供●“ファスト”エディ・クラーク Pics provided from Fast Eddie Clarke

昨年末に報じられたレミー・キルミスター(モーターヘッド:b,vo)の急逝は、ロック/メタル・シーンにとてつもない衝撃と悲しみをもたらした…。その訃報が未だに信じられないというファンもきっと多いに違いない。恐らくそれは、かつてレミーとステージを共にしたミュージシャン仲間とて同じ思いであろう。ヤング・ギターでは、3月号にレミー追悼の記事を掲載したが、実はその際、モーターヘッドの初期ギタリスト:エディ・クラークにも取材を申し込んでいた。ところが、〆切の関係などで同誌への掲載は間に合わず、今回ここに、改めてエディのインタビューをお届け出来ることとなった。長年の友を喪ったエディ──その胸の内とは…?

フィル・テイラーが亡くなったのは俺がレミーと最後に会った日だった

YG:レミーが亡くなって2ヵ月近くが経過しました。幾らかは気持ちの整理がつきましたか?
“ファスト”エディ・クラーク(以下EC):ああ。幾分は落ち着いたよ…。

YG:フィル・テイラーに続いて…ということで、ショックはより大きかったのでは?
EC:そうだな…。彼等との思い出は、俺が死ぬまで心の中に生き続けるだろう。

YG:レミーのお葬式には出席出来なかったそうですが、それも無念だったのでは?
EC:葬儀はLAで行なわれたんだが、俺は当時、ヴィザとパスポートに問題があってね…。出席出来なくて残念だよ。クリスマスの時期だったから、(英国の)アメリカ大使館が閉まっていて、解決出来なかったんだ。

YG:あなたはレミーの死をいつ、どのような状況で知りましたか?
EC:彼のマネージャーのトッド(シンガーマン)が、前日に電話をくれたんだ。首と脳の癌に侵されていて、余命わずかとのことだった。「すぐにレミーに会いに行かなくては!」と思ったよ。そして、ヴィザの問題を解決しようとしていたんだが、その翌日、彼がLAで亡くなったことを告げる電話が入ったんだ…。

YG:最後にレミーと会ったのはいつのことでしたか?
EC:’15年11月だ。ロンドンで行なわれた“Classic Rock Awards”の会場だった。彼は賞を授与するために来ていて、ちょっと雑談したよ。パートナーのシェリルにも会った。そして、’16年1月にロンドンで2回ライヴをやる話をしたんだ。俺がバンドと共演することになっていた。実現しなかったのは悲劇だね。それに、フィル・テイラーが亡くなったのが、まさにその日の夜で──それが、俺がレミーと最後に会った日となったよ。

YG:モーターヘッド加入当時のことを憶えていますか? あなたをレミーに紹介したのはフィル・テイラーだったそうですが、チェルシーにあったスタジオの受付嬢:エアロプレーン・ガーティだという話もあります。どちらが本当なのでしょう?
EC:どっちも本当だよ。フィルはモーターヘッドに、ラリー・ウォリスに続くセカンド・ギタリストを入れるため、俺と連絡をとっていてね。そしてラリーに会った時、偶然レミーにも会ったんだ。そこは友達のガーティが働いているリハーサル・スタジオで、レミーもそこにいたのさ。俺は自己紹介をし、「今度モーターヘッドのオーディションを受けることになった」と話した。レミーは、フィルからその件についてちらっと聞いていたから、そこで一緒にオーディションの予定を立てたんだ。その後どうなったかは、みんなも知っている通りだよ!

YG:当時、ラリーのことはどう見ていましたか?
EC:ラリーはピンク・フェアリーズというバンドにいたけど、あまり好きなタイプじゃなかった。多分、ラリーと俺はスタイルが異なっていたんじゃないかな。

YG:程なくラリーが脱けて、モーターヘッドはトリオになります。後任ギタリストを入れてツイン・ギターに戻さなかったのは、どうしてだったのでしょう?
EC:ラリーが脱退したのは、俺がオーディションを受けた後のことだった。実は、彼はオーディションに4時間ぐらい遅刻してきてね。その間に、レミーとフィル、俺の3人は、既に一緒にプレイしていたんだ。そして、トリオで素晴らしい音楽を作ることが出来ると分かり、もう4人目は必要ないと判断したのさ。

YG:”Fast”というあなたの愛称は、レミーが付けたそうですね?
EC:マンチェスターでライヴをやっていた時、まずレミーが、フィルを“フィルシー・アニマル”と紹介し、次に俺の方を向き、「This is “Fast” Eddie!」と言ったんだ。それっきり、その言葉が定着してしまったよ。当時やっていた曲はとても速くて、俺自身のギター・プレイも相当に速かったからね。

YG:モーターヘッド加入当時、レミーからギター・プレイについて何か指示や注文はありましたか?
EC:注文なんてないよ…! 俺はこのトリオに、自分がそれまでに身に付けてきたこと総てを注ぎ込んだし、それはレミーもフィルも同じだった。みんな対等だったんだ! そうじゃなきゃ、ウマくいかなかったんじゃないかな。

YG:レミーは彼の自伝の中で、「デビュー・アルバムの制作直前、バンドは行き詰まっていて、解散も考えた」と書いています。また、アルバム『MOTORHEAD』(’77年)リリース後にも、あなたは一時期、THE MUGGERSというバンドを別にやっていたそうですね? 当時はそんなにキビしい状況だったのですか?
EC:1stアルバムを出す前のモーターヘッドは厳しい状況にあった。フィルが「解散した方がイイかもしれないな」と言って、レミーと俺が「そしたらこの後、俺達はどうすりゃイイんだ?」と言ったのを憶えているよ。だが、チズィック・レーベルとのディールが新しい希望をくれたんで、フィルもやる気になって戻って来たのさ。確かにフィルと俺は、THE MUGGERSもやっていたよ。当時のマネージャーから、「モーターヘッドの名前で仕事をするな」とお達しが出ていたからね。つまり、(契約上の問題で)モーターヘッドとしてプレイ出来なかったんだよ。あとフィルは、クリッシー・ハインドがバンドを結成しようとしている時に、ちょっとドラムを叩いたりもしていたよ。もしかしたら、あっちに入ろうと考えていたのかもね!

YG:しかし──その後、ブロンズ・レコードとの契約を手に入れたバンドは、アルバム『OVERKILL』(’79年)以降、一気に成功への階段を駆け上がります。どこにバンドの転機があったと思いますか?
EC:新しいマネージャーを雇い、ブロンズからシングル『Louie Louie』(’78年)をリリースしたことは、俺達に「Overkill」など、さらに2〜3曲を書くモチヴェーションを与えてくれたよ。そしてそれらは、ブロンズから出す初のアルバム(『OVERKILL』)に入ることになった。さらにその年の11月には、初めて(ロンドンの)ハマースミス・オデオンでプレイすることになったんだ。だから、転機は’78年だったと思う。

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