ヤング・ギター2015年12月号掲載ザ・ビートルズ特集内の「ザ・ビートルズ“現役世代”の貴重な証言」において、数々の興味深い話を披露してくれたギタリストの“CHABO”こと仲井戸麗市。先週公開したアンディ・ティモンズの発言集に続き、今回はジョン・レノンの死など5つのトピックに関するCHABOの未掲載インタビューをご覧いただこう。
ジョン・レノンの死の重みとか悲しみとか、いろんなことがやって来たのはもっと後になってからだった
’60年代当時のファン事情
俺達は団塊の世代だから1クラスに40〜50人もいたけど、ビートルズが好きなのはその中の3〜4人くらいだったよ。「クラスの半分がビートルズ・ファンだった」なんて言う人もいるけど、そうじゃなかったんだ。社会現象ってそんなものだよ。で、ローリング・ストーンズのファンは(クラスに)1人か2人。俺のクラスにはカサハラ君っていうストーンズ・ファンがいて、今思えばヒップなやつでね(笑)。その当時、もうブルースを聴いてるんだもん。「ストーンズの“Little Red Rooster”(’64年発表、原曲はハウリング・ウルフ)はかっちょ良いよ!」みたいに、彼からはいろいろ教えてもらったんだ。
’66年の来日公演チケットはどうやって入手したか
大人って汚いなって思ったんだけど(笑)、チケットを入手するまでにはいろいろ段階があったんだよ。これは間違った記憶かもしれないんだけど──まずスポンサーのライオンにハガキか何かで申し込む。そうすると、当時「夢見るシャンソン人形」(’65年発表)っていう歌がヒットしたフランス・ギャルっていう歌手のコンサートを観に行ける資格がもらえるの。だから多分、俺は彼女のコンサートに行っているんだよ。そうすると、今度はビートルズのチケットを申し込める資格を得られるの。俺はそういう流れでチケットを手に入れた憶えがあるね。
日本公演の前座について
(内田)裕也さんが「ウェルカム・ビートルズ」(オリジナル曲)を歌ったりとか、ザ・ドリフターズが出たりとか、他にも何組か出演していたね。でも当時は、日本人がちょっと出た…くらいの印象だったかな。だって俺達はビートルズを待っていたわけだしさ。今思うと、彼らも大変だったろうなと(笑)。同業者からしてみればね。ドリフだって「どうして自分達がそんなことを…」と思ったかもしれない(笑)。しかも武道館でコンサートをやること自体初めてだったし、警察官がたくさんいてやりにくかっただろうし…とにかく大変だったのは想像に難くないよ。
ジョン・レノンの死の衝撃
RCサクセションで並木橋のスタジオに入っていたら、森川(欣信/当時キティレコードのRCサクセション担当ディレクター、現オフィスオーガスタ代表)が真っ青な顔をして来たんだよ。「CHABO、聞いた? ジョンが殺されたって!」「何だよ、それ!?」って…そういうやり取りだった。TVニュースでもやっていて、一般的には「ジョン・レノンという著名人が(自宅の)ダコタ・ハウスの前で殺害された」っていうことだけなんだけど、俺達にとってはそんなもんじゃないわけだよ。FEN(在日米軍放送局、現AFN)ではジョンの曲をかけまくっていたし、ただ事じゃないと思ったよね。「John Lennon died!」とか言っててさ。…でも、その時はなんだかわけが分からなくて、その重みとか悲しみとか、いろんなことがやって来たのはもっと後になってからだった。享年40っていう年齢の若さとか、殺したやつについてとか、そういうことを考えるようになったのはずっと後かな。当時は、とにかくわけが分からなかったね。
自分の作品に対する他アーティストの影響について
俺はリスナーでロック・ファンだから、聴きたいアルバムがいつもあるわけじゃん。例えばキース(リチャーズ)のアルバムが出たら「キースの新譜が出るんだ!」とか。キースに限らず、たくさん大好きなアーティストがいるわけ。自分がプレイするとか歌う前に、日常としてみんなと同じようにロックが大好き──ロックに限らず音楽ファンだから。そういう日常があって、いつも音楽が染み込んで来る。そして俺にとっては曲を書いて、ギターを弾いて歌うということも日常だから、そういう時に影響された何かしらが出て来るんだと思う。ただ、明らかに影響されたように表現するか、影響されたことを少し伏せて出すか、それはその時その時で変わって来るよね。自分が40年以上過ごして来たバンドマンとしての何かが滲み出ることもあるしね。