この夏、“伝説”が甦る。’77年7月に日本武道館で開催された、当時としては画期的だったライヴ・イベント“NEW WAVE CONCERT”が、来たる8月19日(土)、日比谷野外音楽堂にて復活&再現されることになったのだ。“再現 1977〜日本のロックの夜明け前〜”と題されたこのイベントには、’77年“NEW WAVE CONCERT”の出演バンド3組──邦楽ロックの先駆者である紫、Char、BOWWOW(現在の名義はBOWWOW G2)が再び顔を揃えることとなった。
’77年といえば、それこそまだ“日本のロックの夜明け前”。しかしながら、“NEW WAVE CONCERT”のチケットはほぼソールド・アウトだったそうで、これぞ我が国の音楽史を動かした一大事件だと言えるかもしれない。そんな歴史的ライヴ・イベントの復活&再現は、果たしてどのようにして実現に到ったのか?
先頃、ドキュメント映画『紫〜MURASAKI〜』の公開でも話題を呼んだオキナワン・ロック界の重鎮:紫のギターを務める比嘉清正&下地“GG”行男に、“NEW WAVE CONCERT”&“再現 1977”について、’70年代当時の貴重なエピソードを交えつつ大いに語ってもらった…!!
武道館公演をやって「イチから出直しかな」と…
YG:まずは、’77年のライヴ・イベント“NEW WAVE CONCERT”の“再現”を行なうことになった経緯──実現に到ったキッカケから教えてください。
比嘉清正:(プロモーターの)HOT STUFF(ホットスタッフ・プロモーション)の会長さんが、以前から「やりたい」と思っていたみたいでね。元のコンサート(“NEW WAVE CONCERT”)も彼が企画したから、ずっと話は耳にしていたんですよ。それがやっと実現した…という感じかな。バンドが3組いるんで、なかなかスケジュールが揃わなくて、コッチが良くてもアッチがダメ…ということも(以前に)あったみたいで。
YG:ようやく実現…と分かった時はいかがでしたか?
下地“GG”行男:気持ち的には──昔に戻ったような気もするけど、今は「よし、頑張るか!」と。
YG:’77年当時のお客さんの年齢層はどうだったのでしょうか?
GG:みんな若いですよ。学生さんも多かったと思うし。20代から30代まで…かな? 40〜50代はいなかったと思う。
YG:武道館でプレイしてみていかがでしたか?
比嘉:当時はね、まず何ヵ所か(ツアーで)廻って、最終的に武道館でやったんですよ。あの時は、エイサーをやりました。
GG:「Mother Nature’s Plight」(’77年『iMPACT』収録)の中間部でね。沖縄のバンドだから──ウチナーンチュ(沖縄人)だから、ロックの中でエイサーをやってみよう…と。
比嘉:沖縄のエイサーの青年団に指導してもらって、ひと月ぐらい練習して、それで本番に臨んだんですけど、それは楽しい思い出ではあるね。
GG:ウケたような感じはしたし。
比嘉:うん。でも…自分としては、ちょっと別の思いがあって。憧れだったんですよ、武道館は。ギターを始めてからずっと、沖縄で思ってました──外タレが沢山ライヴをやったあのステージに「いつか立ちたい」と。でも、(実際に)立った途端、ちょっと違う…のかな?(苦笑) 何かね…あれだけの(大人数の)お客さんを目の前にして、「(自分の実力が)ちょっと足りんぞ…」思ったんですよ。
GG:そう。(ステージに)立つ前は、「やってみたい」という気持ちが強かったけど、いざそこに立ったら、もうビクビクして大変だったんです。「凄いところにきてしまったな…」と。
比嘉:だから、これはちょっと…「もう1回、イチから出直しかな」みたいな、そういう気持ちになりましたね。
YG:でも、その前に大阪の“8.8 ROCK DAY”でもプレイしていますよね? 万博のお祭り広場(万博記念公園)で…ということは、その時も結構な人数のお客さんの前だったのでは?
比嘉:ああ、もう凄かったですね。
GG:うん。お客さんのノリが違ったね。沖縄のお客さんは、ジーッと観てて、コレ(腕を振り上げるジェスチャー)がないワケさ。でも、本土に来たら…(熱狂の度合いが)「全然違うな」と思って。沖縄でも、外国人客は凄いよ。みんな暴れてたけど、沖縄の日本人のお客さんは大人しいから、その差にビックリしたね。
比嘉:あの時が最初の本土(でのライヴ)だったんです。自分は当時、最後の(=最後に加わった)メンバーで、万博のひと月前ぐらいかな? 紫に入ったのは。でもね、それとはまた違うんですよ。
GG:違うね、武道館は。
比嘉:だから、それで自分は辞めました。
YG:えっ…?
比嘉:「このままじゃいかん」と思って。いや、結局’78年までは続けたけど。次の年までスケジュールが組まれてたからね。でも、それで(紫を)脱退したんです。
GG:脱退した…というか、解散みたいな感じに──もう、(比嘉だけではなく)みんなバラバラになって。それで、城間の俊雄(b)と正男(vo)の双子(兄弟)は、(新たに)ISLANDというバンドを組んだ。でも僕は、それでバンドを一切辞めて、ギターも全部売って、そこからは普通のサラリーマンをやってました。子供も小さかったんで、30年間ぐらい音楽から離れてましたね。
YG:武道館でプレイして、ひとつの達成感みたいなのもあったんでしょうか?
比嘉:そうですね。
YG:当時のファンは紫を、それこそ外タレのような感覚で聴いていたそうで…? 二井原(実/ラウドネス:vo)さんも、映画『紫〜MURASAKI〜』の中でそう証言されてましたが。
比嘉:当時の沖縄だと、自分の周りにも外国人がいっぱいいて、クラブで演奏する時も(観客は)外国人ばっかりだったけど、特にそういった意識はなかったね。でも、本土に来た時に、何か“違う”感じはしたかな。
GG:“外タレ”という気持ちは全然なかったね。まぁ、(沖縄に駐留していた)アメリカ人の兵隊さんから、相当な刺激をもらったけど。(演奏中)「お前らなんか!」とビンを投げられたりもして(苦笑)。
比嘉:そうそう、ボトルが飛んできましたよ。
GG:それで、「もっと研究して、練習しないといかんな」と思って。
比嘉:でも、一旦認められると、応援してくれるんですよ。それまでは大変でしたけど。だから、彼等(米兵の観客)に鍛えられたんですね。ただ、ディープ・パープルなんかは、早くから聴いてました。沖縄にはファースト(’68年『SHADES OF DEEP PURPLE』)が(本土より)早く入ってきたから。あのアルバムには(ザ・ビートルズのカヴァー)「Help!」が入ってて、すぐコピーしたな。ところがジョージ(紫:key)が現れて、その瞬間、「もうディープ・パープルは辞め!」ってなったんですよ。あの演奏を聴いたら(凄過ぎて)、「(勝てないから)他のことやろう」となりますよ(笑)。
YG:昔から紫はディープ・パープルとよく比べられてきましたが、パープルとは違い、紫がツイン・ギター編成なのにはどんな理由が? 清正さんが入る前は、GGさんだけのシングル・ギターだったんですよね?
GG:いや、城間兄弟の弟(城間 勉)がギターでいましたよ。自分がヘタだからね(笑)。
比嘉:まぁ、“完全にディープ・パープルにしたい”というのはなかったんだろうな。
GG:ジョージは相当ジョン・ロードに憧れてたけどね。
YG:メジャー・デビュー前に清正さんを引き入れたキッカケというと?
比嘉:その前にChibi(宮永英一:dr, vo)と一緒にやってたからかな? 2人ともコンディション・グリーンにいたんですよ。当時は、MUGENというバンド名で、内地(本土)に行ってデビューする予定でね。シンキ(洲鎌新輝)のあとに自分が入って、京都大学でコンサートをイッパツやることになっていたのに、その前日に解散になって…。いや、解散というか、Chibiを辞めさせようとしたんだったかな? 理由は未だに分からないんだけど。それで、結局京都のライヴはやったんだけど、そのあとChibiは沖縄へ帰ることになって、「お前が帰るんなら自分も帰る」と。それで、Chibiが紫に入って、自分も誘われたけど3ヵ月ぐらい「今はやりたくない」と言ってて──でも、レコード会社の説得もあったから、(大阪のライヴの)ひと月前に(紫に)入って、それで一緒にやるようになりましたね。
YG:ツイン・ギターにキーボードもいて…という編成だと、アレンジが大変だったのでは?
比嘉:そうですね。でも、もう出来上がっているバンドだったから。自分は、「下地が弾いてないところはどこかな?」という感じで、それを探し探ししながらやってました。
YG:’77年の“NEW WAVE CONCERT”で共演したCharさんとBOWWOWですが、それ以前から面識はあったのでしょうか?
GG:僕は初めてだった。
比嘉:自分もそうかな。でも──Charのデビューは’76年でしたよね?──あのファースト(『CHAR』)はよく聴いてました。毎日聴いてましたよ、大好きで。そのあと、「Starship Rock’n Rollers」を(’78年に)レコーディングした時は、彼(Char)のイメージで弾きました。「Charだったらどう弾くかな?」と思って。あと(山本)恭司はね、沖縄で(BOWWOWがライヴを)やった時にちょっとしたトラブルがあって。’79年の大晦日だったかな? ケガしたでしょ?
GG:うんうん。
比嘉:大晦日のイベントにBOWWOWも参加してて、ちょっと焦ったのかな? (パイロの演出用の)マグネシウムが爆発して、大変なことになって。でも恭司のバンドは、’77年に一緒に廻った時「流石だな」と思った。どこだったか忘れたけど、打ち上げに行く時、(メンバー同士で)「お前は8分音符で歩け」「お前は16分音符で歩け」って、リズムを取りながら行くんですよ。それを見て、「うわ〜、負けたな」と思った(笑)。沖縄にそんなバンドはいなかったから。あと、恭司は可愛かったんだよね。「比嘉さ〜ん、俺(新しい)ギター買っちゃった〜」とか言ってて(笑)。
YG:ちょっと不思議に思っていることがあって──’70年代当時、紫が大人気で、本土でも大成功して、そうなると沖縄からどんどん後続のハード・ロック・バンドが出てきそうですが、そうでもなかったですよね? 何でだったのかな…と思いまして。
比嘉:結構(他にもバンドは)いたんだけどね。
GG:いたんだけど、みんなすぐバラバラになってしまって。
比嘉:まとまりのあるバンドがいなくてね。
YG:紫は当時から、バンド自身でライヴハウスを経営してましたよね? そこには、どんなバンドが出演していたのですか?
比嘉:僕等だけですよ。
YG:本土からバンドを呼んだりは?
GG:してないね。
YG:完全に“紫のためのハコ”だったんですね! となると、毎晩ライヴで出づっぱり?
比嘉:そうそう。月に2日だけ休みがあって、あとは毎晩(ライヴを)やってました。だから、もう寝ながらでも弾けるようになって(笑)。それぐらい(の忙しさ)だったよね。
YG:1日に何ステージやるんですか?
GG:4ステージ。
比嘉:最低4回だね。
GG:1回45分演奏して、15分休んで、また次をやる。
比嘉:ペイ・デイ(給料日)になると、1日5〜6回という時もあったな。