(後編)ブライアン・ティッシー:ランディ・ローズ没後40年インタビュー「その功績は決して忘れられることはない」

(後編)ブライアン・ティッシー:ランディ・ローズ没後40年インタビュー「その功績は決して忘れられることはない」

ランディを偲ぶブライアン・ティッシーの最新インタビューは大ヴォリュームにつき、2部構成でお届け! このページに掲載しているのは後編だ。

前編はこちら。

ポルカ・ドット柄にしようと決めた日にどんな出来事があったのか…

YG:ランディが使用していたギターはどれも印象的で、ジャクソン製のVシェイプはメタル・ギターのアイコンとなりました。彼がいなかったら変形ギターの歴史も変わっていたのではないかと思いますが…、そういったギターのデザインにおけるランディの功績についてはどう思いますか?

BT:それもまさしくランディを語る上で重要な要素の1つだよね。ランディといえばレスポールが思い浮かぶし、実際に持った姿も最高だった。(カール・サンドヴァル製の)水玉Vや(ジャクソン製)コンコルド・ギターを持たせても、やっぱりまさしくランディ・ローズだ。特にコンコルド・ギターは、いろいろな部分で革新的だったよね。そこからは、ランディがギターについても常に色々と考えていたことが分かる。彼は、変化を起こそうとしていたんだ。俺たちの理解が追いつくよりも早く、彼は先を走っていた。その点、本当に残念だよ。25歳で飛行機事故に遭うなんて…。彼は素晴らしいギター・プレイヤーであり、素晴らしいギターの研究家だったんだから。彼が次にどんなアルバムを出すのか、どんなギターを使うのか…楽しみで仕方がなかったね。ただ、オジーと一緒に3枚目のアルバムを作っていたとしても、彼はそのまま続けていたかどうかは分からないけど…。クラシック音楽を本格的に学びたいと考えていたようだからね。

YG:ええ、ランディはオジーのバンドを辞めて、大学でクラシック・ギターの学位を取ろうと考えていたようですね。人気絶頂の頃に華々しいステージを下りて、学業に専念する…という考えに共感できるところはありますか? 

BT:俺がまだ十代の子供だったら、「何で? もう1枚アルバムを聴かせてよ!」と言っただろうね。あくまでも想像の域でしかないけど…『DIARY OF A MADMAN』のツアーが終わる頃には、きっともう1枚アルバムが作れるだけのアイデアが山ほどできていただろうな。例えば、ライヴでは「Suicide Solution」の中盤でランディがよくソロを弾いていたけど、そこではドン・エイリー(key)とハモったり、ドラムとベースが入ってきてクールなインストを展開したりしていたんだよ。とてもいい感じの小曲で、3枚目のアルバムが作られたとしたら、エピックな曲の一部に採り入れられてもおかしくないようなものだった。「このアイデアを使って、“Revelation(Mother Earth)”と“Diary Of A Madman”に続く第3のエピック・ナンバーを作ろう!」なんてね。そしてアルバムをリリースして、大きなスポットライトと称賛を浴びてアリーナでプレイする──でも、きっとランディは「他のこともやってみたい」という思いが出てきたんだろう。「オジーのバンドでプレイするだけじゃなく、違うことも成し遂げたい」と。きっと、ランディならクラシック・ギターのみならず、いろんなことができただろうね。

YG:また、ランディは素晴らしいギタリストであると同時に、熱心なギターの先生でもありました。

BT:ああ、そうだな。彼の生徒の中で有名なのは、ジョー・ホームズだろう。ジョーはその後、オジーのバンドでプレイすることになるんだから、なんだかとても運命的だよね。ジョーとは一緒にプレイしたことがあるけど、実に素晴らしいギタリストだよ。

俺は、ランディのレッスン音源を聴いたことがある。教えることにとても情熱的なのが伝わってきたよ。初心者にも分かるように教えていたし、先に進んだ人にも改めて基本に立ち返れるようにしていた。ギターを弾くのが上手いからといって、教えるのも上手いとは限らない。「この曲の弾き方はこう。来週までにはこの曲を弾けるようになろう」というやり方よりも、道具の使い方を知って、そのプレイが何に基づいているのかを把握させる必要がある。ランディはそれが上手にできたんだろうな。生徒の進歩を見守り、彼らが前進できたことを実感するのを見て喜ぶ。そういう人が素晴らしい先生なんだ。

YG:ランディの事故死をどんな状況で知ったか、憶えていますか? 当時、どんな心境でしたか?

BT:俺は8年生(中学2年生)で、誰かがラジオで聞いたというのを教えてもらったんだ。自分でこの出来事を信じられるまでに、数日はかかったね。くだらない噂話じゃないかと思っていたよ。当時は「オジーがステージに現れず、怒った観客が死んだ子犬をステージに投げ入れた」なんて、オジーにまつわるくだらない噂がよく出回っていたからね。「ランディ・ローズが死んだ」と聞かされても、「またか…。今ランディはまさにツアーの真っ最中じゃないか!」なんて、信じられなかったよ。

そんな噂話が凄く多かったから、俺は母親にオジーのライヴを観に行っていいかと訊くのが怖かった。だから、残念ながらランディをライヴで観たことがないんだ。でも、オジーのショウでランディを観たという仲間と話すと──ダグ・アルドリッチなんかがそうだけど──みんなが「自分の人生が変わった」と言うんだ。俺が10〜11歳の頃にKISSのコンサートを観た時のように、もしくは9年生の時にヴァン・ヘイレンを観た時のように、家に帰ってその夜自分が目の当たりにした光景に圧倒され、感動して身動きができなくなる。ランディを観た人たちは、まさにそんな衝撃を受けたとみんなが口揃えて言うんだ。

YG:生前のランディのインタビューなどはあまり多くなく、ミステリアスな部分も残っていると思います。彼のプレイやサウンド、考え方について、ランディ本人に確かめたい、教えてもらいたいと思うことはありますか?

BT:もしランディと話す幸運に恵まれたなら、俺がこれまでに自分のヒーローたちにしてきた質問をするだろうね。曲を書く時にはどんなことが頭の中を巡っているのか、あのフレーズはどうやって思いついたのか…とか。意図して試してみたことなのか、たまたま「あれ、これは何だろう?」という感じで出てきたのか。ギターのデザインについても聞いてみたいな。なんでポルカ・ドット柄にしたのか? ポルカ・ドットにしようと決めた日には、どんな出来事があったのか…。そういったことの真相が明かされたら、凄いだろうなと思うよ。

“RRR”は「ランディ大好きなみんなと一緒に楽しい時間を過ごそうぜ!」というノリで始めた

ブライアン・ティッシー RR2018イベント

YG:ブライアンは2014年から開催されているトリビュート・コンサート“Randy Rhoads Remembered”の主宰者でもあるわけですが、このイベントを開催するに至った経緯を話していただけますか?

BT:きっかけは“BONZO BASH”だった。俺の大好きなドラマーのジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリン)を讃えるパーティーを、リハーサル・ルームでできないかと考えたんだ。友達のミュージシャンたちを誘って、入れ代わり立ち代わりツェッペリンの曲をジャムしまくるパーティーができたら楽しいだろうなあってね。でも、「たくさんのミュージシャンを集めるのなら、やっぱりオーディエンスにも観てもらえるちゃんとしたショウにした方が楽しいんじゃないか」と思い始めた。で、その準備を進めている中で、プロジェクト・パートナーのジョー・サットンと話している時に「同じようなイベントをギタリストでやるなら、やっぱりランディ・ローズしかないよな!」と言ったら、ジョーは「絶対やるべきだ!」と同意してくれたんだ。羨ましいことに、ジョーは実際にランディをライヴで観ているんだよ。

それが2010年のことで、その年に“BONZO BASH”がスタートした。それから毎年開催されて、2014年には2日間連続でやるほどになったんだ。たくさんのドラマーたちが参加したいと言ってくれたし、開催されるのがちょうどNAMMショウの時期で、多くのミュージシャンたちがアナハイムに集まっていたからね。でも、「さすがにツェッペリンの曲だけで二晩もやるのはトゥーマッチかも…」ということになって、もう1日押さえてある会場はどうしよう…となった時に、ジョーと「そうだ! あの時話したように、1日目にボンゾをやって、2日目にはランディのトリビュートをやればいいじゃないか!!」ということになったんだ。“BONZO BASH”とは違って俺が1人で一晩中ドラムを叩いていられるし(笑)、素晴らしい曲の数々を素晴らしいギタリストたちと一緒にプレイできるんだから、絶対に楽しくなるはずだと思ってね。

その少し前に、俺はジェフ・テイト(vo)のバンドでルディ・サーゾ(b)と一緒にプレイしていたから、彼に連絡して「もしNAMMショウの時期にこういうイベントをやったら、ベースを弾いてくれるかい?」と訊いてみると、「面白そうだな、やろう!」と言ってくれた。次に当時、セバスチャン・バックのバンドでギターを弾いていたブレント・ウッズ(ワイルドサイド)にも話してみた。彼は元々“BONZO BASH”への参加が決まっていたんだけど、ランディの件を話すと「それは素晴らしいね!」と言ってランディの家族に連絡を取ってくれたんだ。ご存知の通り、ブレントはランディと同じ(カリフォルニア州)バーバンクの出身で、子供の頃にはランディからレッスンを受けていて、ランディの家族のこともよく知っていたんだ。ブレントがケル(ローズ/ランディの実兄)とキャシー(ローズ/ランディの実姉)に連絡してイベントの趣旨を伝えたところ、彼らはイベントをサポートしてくれると言ってくれた。そうやって、2014年にスタートしたんだよ。

でも、ショウの何ヵ月も前からずっとあれこれと考えて準備してきたわけじゃないんだ。「ランディ・ローズは最高のギタリストで、彼を大好きなみんなと一緒に楽しい時間を過ごそうぜ!」ってだけ。ショウに出てくれたミュージシャンたちも、みんなそんなノリで参加してくれたよ。ショウはどの回も本当に楽しかった。参加してくれたギタリストたちはみんな凄くて、誰もがランディに対するリスペクトを感じさせるプレイをしていたな。子供の頃に、自分が覚えた通りに弾いていく──それこそがランディへの大きな称賛なんだ。「ランディ、あなたはこんなにも自分に影響を与えてくれたんですよ!」ということを示すというね。かつてランディが自分に与えてくれたものに対して、今彼にお礼を返すんだというような気持ちで、みんな自分なりに誠実にプレイしていた。ランディのプレイに忠実に弾く人もいれば、アルバムの音をなぞるのではなく自分自身のプレイをする人もいたり…これが“Randy Rhoads Remembered”の醍醐味だと思うね。

YG:そうやって、ランディのレガシーが受け継がれていくんですね。

BT:その通りだよ。ランディのプレイとその功績は決して忘れられることはない。今年、ランディは“ROCK ‘N’ ROLL HALL OF FAME”の殿堂入りを果たした。素晴らしいことだし、まさに彼はそれに値するミュージシャンだ。彼はいまだに影響力のある存在であり、これから20年、30年経っても、ギタリストたちは彼のプレイを「凄い」と思うはずさ。時代に左右されない、まさに不朽のギター・スタイルを持っていたのがランディなのさ!

INFO

ヤング・ギター2022年4月号には、ランディ・ローズ没後40年を偲んで総勢13名のギタリストや関係者へ行なった最新インタビューを掲載。WEB限定記事の3名(随時更新)と合わせてチェックを!

ランディ・ローズ没後40年特集インタビュー扉